丸山歯科新聞2016春

丸山歯科新聞

二代目理事長死去

 平成二十八年三月八日、当医院の理事長・丸山茂が永眠いたしました。生前の感謝の辞と共に、皆様にご報告させて頂きます。

 丸山茂は、昭和四年三月七日に新潟で丸山歯科医院初代院長謙治の長男として誕生し(弟と妹の三兄弟)幼少の頃、東京都墨田区菊川へ越て参りました。

 日本大学歯学部卒業後は。臨床医として地域に貢献する傍ら、大学や衛生士学校において教鞭をとり、医療従事者育成にも力を注ぎました。

 三十代は、熱い思いを持った同志と、医療を学ぶ為にアメリカまで足を運びました。当時は一ドル三百六十円の時代で、に海外に行かれる環境ではありませんでした。

 四十代からは中国の歯科発展にも携わり、大連・上海を中心に、年に数回訪中していました。歴史のある中国の敦煌の莫高窟内で、歯を磨く人の壁画を発見し

元医院長

 たニュースは中国のメディアにも大きく取り上げられました。中国政府が関係している事もあり、当院が中国の歯科関係者一杯になる事も少なくありませんでした。その功績により、中

華医学会「日本でいう、医科歯科薬科の三大師会の集まった学会)から日本で初めて名誉会員の称号を頂き、人民大会堂の壇上にあがりました。

 五十代以降は、歯科材料を販売する大手メーカーの企画開発に携わり、数多く世に出しました。金属の型を作る為の型取りに使用する材料や、審美面に関与する部分に使用する歯科用樹脂、しっかりと金属をつけるセメント、入れ歯の適合を良くするピンクの樹脂など、どれも今日の歯科診療を行うのに欠かす事の出来ない材料です。

 その他、いらしてくださる患者様の時間を無駄にしないように、まだ歯科一般では取り入れられていなかったアポイントシステムをいち早く取り入れたり、診断に正確さを要求する為に、お口の中全体が一枚のレントゲンで把握出来る機械を導入しました。今では歯科医院にあって当たり前のものですが、レントゲンの機械は、メーカーがパンフレットを作成する為に、カメラマンを連れて当医院の設設備を撮影しにきました。

中国の絵

 診療室入口の長谷川平蔵・遠山金四郎のモニュメントも、多くの方に知って頂こうと作成しました。診療は七十代半ばまで診療致しました。診療を三代目の満博に託し、晩年は好きなカメラを

いじっていました。趣味だった岩登りは仕事をしていく上で、人に迷惑をかける事があってはならないと、封印していました。

 今年始めに茂は「今年は、『頑張らない、我慢しない』」と掲げていました。自分の誕生日を子供や孫に囲まれてお祝いされた翌々朝未明、茂は自宅で息を引き取りました。頭を仏壇に向け、眠るような安らかな顔でした。前日まで元気で「俺もう寝るわ」が、最後に長男満博と交わした言葉でしした。(享年八十八)春嶺をのぼる夢みて逝かれしる紅花

 医院はこれから三代目満博が引き継ぎ、地域に貢献して参ります。四代目敦央も歯科医師となり、現在、大学の口腔外科に籍をおいています。生前は誠にお世話になりました。厚く御礼を述べさせて頂きますと共に、引き続き今後とも宜しくお願い申し上げます。

元医院長と景色